新本格魔法少女りすか  やさしい魔法はつかえない   西尾維新  ぼくがその、事件というべきか事故というべきか、とにかく判然としない『事実』を目撃したのは丁度(ちょうど)一週間前、先週の日曜日のことだった。ぼくはその日、所用あって自分の住処《すみか》である佐賀県河野(かわの)市を遥《はる》か離れ、県境を越えて福岡県博多市の木砂《きずな》町にやってきていた。所用というのは説明の仕様は色々あるが、突き詰めれば要するに『人に会う』というだけで、逆に言えば確たる目的はなかったとも言えるのだが、何にせよぼくはその『事実』の現場に衝突するだけの必然の持ち合わせがあったわけではなく、その場に居合わせたのはただの偶然——というものだろうと思う。こういうことがあるからぼくは偶然という奴がそれほど嫌いにはなれないのだ。ことは、佐賀県への帰途、まず博多駅にまで向かう電車を、木砂町の地下鉄新木砂駅の一番ホームで待っている際に起こった。時刻ははっきりしている—午後の六時三十二分。何故《なぜ》はっきりそう断言できるかといえば、その時間、正に、ぼくの待つ一番ホームに、列車が進入しようとしていたからだ。日本の鉄道は国鉄私鉄を問わず、おしなべて時間に正確である。とにかく、六時三十二分。『一番線に列車が参ります。危険ですので黄色い線の内側までお下がりください』というお定まりの放送も、輸唱するように聞こえてきた、その数秒後のことだった。その電車に乗るためにぼくの前に並んでいた四人——見知らぬ四人だが、今ではもう名前もはっきりしている、賀川先郎《かがわさきろう》、矢那春雨《やなはるさめ》、真辺早紀《まなべさき》、田井中羽実《たいなかうみ》——が、タイミングを測っていたかのように、電車の先頭車両が目前を通り過ぎるその寸前に——線路に向かって、その身を投げ込んだのだ。その瞬間のことを、脳内麻薬の効果なのかただの錯覚なのか、ぼくはスローモーションで記憶している。吸い込まれるように、むしろ先を競うように落ちていく四人と、電車の運転士の唖然《あぜん》とした、天変地異を目撃しているかのような表情——だが、それも一瞬、一瞬のこと。視覚の速度はすぐに元に戻ったが——その一瞬のあとに何がどういうことになったかなんてよほど脳に血液の巡ってない人間でもない限り、説明するまでもないだろう。四人はどれが誰の部品だか分からないくらいにばらばらに、散らばるように吹っ飛ばされた。基本的に電車と言う乗り物は線路を走るだけの物体なので、人間とぶつかったときのことを考えて設計されていない。莫大な質量を所有する一個の鉄の塊《かたまり》、暴力の象徴と考えた方がいい——ぼくと、そして被害者の四人が並んでいた乗車口は、一番ホームにおいて電車の進行方向から割と前の方だったが、そんなことはあまり関係ない。たとえ一番先頭の乗車口に並んでいたところで、ばらばらになって死ぬか、人の形が残るか、それくらいの違いでしかないだろう。今のところ確認されている『事実』はそれだけだが——本当にそれだけだったらぼくは何も問題を感じない。そりゃ、その事実の所為《せい》で電車を無駄に三十分ほど待つ羽目になったが、そんなことでいちいち目くじらを立てるような小人物では、ぼくはないのだ。怒りなんて無駄なエネルギーは、手段、あるいは手役として以外は使わない。ただ——この『事実』が、単なる『事実』だけで収まらない点をいくつか含んでいることが、今回の場合、ぼくにとって大いに間題だ。いくつかの問題—— 一つは誰にでも分かることだろうが、四人の人間が一気に飛び込むという、同時性。一人の人間が電車に向かってダイブする、それだけなら分かり易《やす》い。一人の人間が線路に向かって転がり落ちる、それだけでもまだ分かり易い。自殺か事故での電車事故、そんなものは日本全国、地方中央を問わず二十四時問年中無休で行われている儀式のようなものだ。だがしかし、それが四人が同時にとなると——少し話も変わってくる。四人がまとめて、偶然、偶然に線路に飛び込むなんてとても考えられないことだし——同じく同時に自殺、という線も難しい。その四人がそれぞれに家族だったとか、親しい友人同士だったというのならばまだ『同時に自殺』、考えられない話ではないが、ぼくがその場で後ろから観察していた限りにおいて、四人の間には何の関係性もない、四人はそれぞれに全くの他人同士だった。ぼくは人間観察眼においてはかなりの自負を持っているし(誰でもいい、ぼくの前に連れてくればいい−その人間がどういう人物だか、箇条書きで百個は挙げてみせよう。勿論外見ではなく中身をだ)、四人の間に何の関係性もないというのはこれは後の新聞発表なんかでも言われていたことでもあるので、それは客観的データでも示されている事実である。要するに、同時性に続く第二の『問題点』は関係性のなさ、なのだ。まあここまでいえば第三の問題点に気付かない愚《おろ》か者はそうそういないと思われるが、その第三の問題点とはつまるところ絶対的な不可能性、である。四人が同時に関連なく線路に落ちる——その公式を現実に当てはめようと思えば、すぐ後ろにいた人間が突き落とす、の他に方法は考えられない。実際、警察やらマスコミやらは、今もなお、その方向で『事件』の『犯人』を追っているそうだが——哀れに思うがそれは徒労だ。何故なら四人のすぐ後ろにいたのはこのぼくであり——ぼくは四人を突き落としたりしていない。身も知らぬ四人を線路に突き落として殺すというような、どこの未来にも繋《つな》がらない行為をぼくはしない。なんて言っても、クレタ人のパラドックスを持ち出すまでもなく、自己言及の言葉には何の説得力もないかもしれない。だが証言以上に、ぼくには四人を突き落とすことなど物理的に不可能なのだ。一人くらいなら、それも華奢《きゃしゃ》な女性だったらという限定条件つきでなら、あるいはそれも可能かもしれないが——身長百三十八センチ、体重三十三キロ、当年とって十歳のぼく、供犠創貴《くぎきずたか》には、同時に四人の大人を暴力によって移動させる手段はない。ま、そうは言ってもその場に留まれば疑われるのは必至だったろうから、己《おのれ》の小柄な身体を利用して、騒ぎになっている隙にその場からはしぱらく離れさせてもらったのだが——さておき。そう、ぼくが四人の被害者を殺しおおせた『犯人』ではないという『事実』からして生じる不可能性−不可能性、である。『同時性の有』『欠く関係性』『不可能性の有』……この三つの問題点が揃えば、これはぼくにとって問題、『問題』であると明言してしまっていいだろう。先に言ったよう福岡に行ったのは人に会うためというそれだけの理由だったので、ぼくにとってこの『事実』は予想外のアクシデントとも言えるのだが、この手のアクシデントは、ぼくとしてはむしろ歓迎すべき愛らしい存在だった。何度でも繰り返すが、ぼくは偶然と言う奴をそんなに嫌っちやいないのだ。さて、だからぼくはその日、その脚で直接りすかに会いに行こうかとも思ったのだが、一人や二人ならともかく、四人の人間が死んだともなれば警察もマスコミも気合いを入れて出張ってくるだろうから、もうちょっとほとぼりがさめてからの方がよいだろうと、ぼくは一週間を行動を起こすまでの冷却期間と定め、その間は他の雑事を片付けながら待つことにしたのだった。その一週間の問に何かくだらない解決が為されるようだったら、わざわざりすかの手を煩(わずら)わすこともないのだし、と。だが建前としてそうは思いつつも、ぼくには確信のようなものがあった。確信のようなもの、というのはぼくの性格から生じる非常に謙虚な言い方であって、事実としてはそれは確信そのものである。そう、ぼくは吸い込まれるように線路に落ちていったあの四人が、決して被害者などではなく、正に犠牲者なのだと確信していた。 「やありすか。愛しに来たよ」 「…………」 「いや、会いに来たの間違いなんだけどね」  勿論りすかに突っ込みなんて高度な対人対話能力を期待してはいなかったが、それでも何の反応も見せてもらえないというのも寂《さび》しい話だったので、自然、自分で釈明《しゃくめい》めいたことを口にしつつ、ぼくは部屋の端にほっぽられていたクッション(こうもり形)を拾い、持ち主の許可も取らずに勝手に座る。見れば、りすかは勉強机に向かっていて、黙々と右腕を動かしている。何か書きものだろうか。落ち着けた腰を上げ、りすかの背後まで行って机の上をりすかの肩越しに覗き込む。左側に分厚いハードカバーの本が広げてあって、右側には大学ノート。大学ノートという名前なのに大学生はあまり使わない、あの大学ノートだ。どうやら左から右に、文章を写しているらしい。ならば左の本は新たに入手でもしたか、あるいはどこかの秘蔵図書館からでも借りてきた、魔道《まどう》書だろう。魔道書の写本は実益を兼ねたりすかの趣味なのだ。振り返って本棚を見れば、各種魔道書が文字通り犇《ひしめ》いていて、殺風景な部屋に彩りを添えている。『妖蛆《ようそ》の秘密』——『断罪の書』——『屍食《ししょく》経典儀』——『屍体咀嚼《そしゃく》儀典』——『セラエノ断章』——『魔法哲学』——『暗号』——『トートの書』——『魔女への鉄槌《てっつい》』——『ドール賛歌』——『世界の実相』——『屍霊《しりょう》秘法』——主立ったところは揃ってはいる(とはいえ、それもほとんどが写本だ)が、それでも手に入らない稀こう本はこうして己で写すしかないのである。そういう意味ではりすかの趣味は魔道書の『記述』の蒐集《しゅうしゅう》にこそあり、写本はただの手段だとも一言える。まあ、下手に原本を集めれば金は掛かるし嵩《かさ》張るし、合理的は合理的、日本語に訳して書いているところはさすが『魔法の王国』出身者だとは思うが。 「—って、うわっ!びっくりしちゃった!」  突然、りすかがぼくを振り向いて、大声をあげた。 「びっくりしたのがわたしだったの。え?なんでいきなりいるのがキズタカなの?」 「……生憎《あいにく》ぼくはりすかと違って魔法なんか使えないからね。階下のコーヒーショップの『準備中』の札がかかった扉をくぐって、中で清掃作業をしていたチェンバリンさんに挨拶《あいさつ》し、カウンター奥のドアを開けてもらって、階段を登って、廊下を歩いて、この部屋のドアをちゃんとノックして、返事がないからもう一回ノックして、それでも返事がなかったんで勝手にドアを開けて中に入ったから、ここにいるんだよ」 「へえ……ぱたぱたぱたと理路整然なの」とりあえず頷《うなず》きはするも、りすかは感心したような顔のままだ。「まあ、ようこそ。適当に座るのはその辺がいいの。渇いているのは喉?」 「別に、そうでもない。季節の割には、まだそんなに暑くないしね。それにコーヒーショップの娘さんからのその質問に、ぼくは迂闊《うかつ》に答えるつもりはないよ」 「お金を取る対象を小学生にはしないって」 「それ、何の写し?」 「ん?あ、いや。不明なのはタイトル。調べているのが現在なんだけれど——まあ、取り得なのが珍しいだけの、マイナーな、大したことのない種類がこの本なの」 「ふうん。しかしいつ見ても面倒そうだよね。その『写し』ってもさ、機械でコピーできたり、りすかの『魔法』がもし応用できたりすれば、かなり楽になるだろうに」 「できてもやらないのが、そんなことなの」きっぱりと、りすかは言う。「こういうのって、楽しいのが、写す作業自体なんだから」 「手段自体が愉悦《ゆえつ》を備えているというわけか。そりゃ、随分と便利なシステムだ。理想的だね」 「キズタカだってそうじゃないの?」 「うん?」 「愉悦が、手段を備えてる」  分かったような表情でそんなことを言うりすかに、ぼくは「そんなことはないさ。手段は、あくまで手段でしかない」と軽く首を振って、否定する。手段はあくまで手段でしかない。それは、まごうことなき、本音だった。    ★   ★  ぼくがりすか、水倉《みずくら》りすかの存在を知ったのは去年の四月、つまり四年生に進級した直後のことだった。正確に言えばその一年前から既に、隣のクラスに転校してきた生徒がいきなり登校拒否になった、という話は知っていて、その生徒の名前が水倉りすかであることも、当然、知っていた。よそのクラスの話でもその程度の気は配っている、当たり前だ。しかしここでいうのは『存在』、水倉りすかというその確たる存在が、『魔法の王国』、『城門』の向こうからやってきた『魔法使い』だと知ったのが、四年生、クラス替えでりすかの名がぼくのと並んで出席簿に記載されるようになったその頃だった、という意味だ。無論同じクラスになろうがなるまいが、登校拒否児のりすかはほとんど学校に来ていなかったので、顔は分からない。調べれば分からなくもなかっただろうが、やはりよそのクラスの話、そこまでの必要性は感じていなかった。だが同じクラスになり、ぼくが四年連続、七期連続のクラス委員になったことで、そこでぼくとりすかとに接点が生じる。ぼくはクラス委員として、登校拒否児に会いに行くことにしたのだ。別にその水倉とかいう生徒が学校に来ようが来まいが、大枠のところぼくには何の関係もなかったのだが、だがぼくの力によって人権ある一人の生徒の登校拒否問題を解決したとなれば、教師陣や学校内でのぼくの評価も目に見える程度にはあがるだろう、と考えたのだ。何事においてもそうだが、見る眼のない奴らにはこちらから歩み寄ってやることが必要だ。他人からの称賛になど興味はないが、周囲のぼけた人間達に分かり易い形で『供犠は使える奴だ』という認識を与えておくことは重要だった。『使える』と思い込んで『使って』もらうこと、今のところはそれが重要だった。『使って』もらえれば、必然的に色々な事件、色々な事故、色々な事実に——色々な人間に、出会えることになる。言うまでもなくそのほとんどは益体《やくたい》もない、取るに足らない価値もない事件に事故に事実に人間ばかりなのだが、ごく稀《まれ》に、これからのところのぼくにとって『使える』、事件や事故や事実、そして、人間と遭遇することができるのだ。だからぼくは優等生を演じる。同級生受けはそれほど狙わなくてもいい、狙うべきは教師陣、大人達の方だ。どちらにしたって何の目的もなく漫然と無駄に生きているだけとは言っても、大人と子供では行動半径がまるで違う、彼らの持っている情報はぼくにとってそこそこありがたい。授業の内容を聞く限り彼らはあまり賢くはないようだが、まあ伊達に長時間無駄に生きているわけではないということだ。無論同級生達の情報も切り捨てるわけにはいかないが、これは単純に効率の問題だ。彼らは、無駄に生きている時間さえ少ないのだから、優先順位が後回しになるのは仕方がない——集団授業上、クラスで孤立してしまうのもまずいので、何の役に立ちそうもないどうでもいい人間にしたって、それなりに相手をしてやってはいるが。全く、馬鹿どもの機嫌をとってやるのには、とかく苦労が多い。理想的にはどんな下らない普通人からだって役に立つ何かを引き出し得るというのが素晴らしいのだろうが(自分以外の全てが師匠、だとか、なんとか)、さすがのぼくもその域に達するのはもう少し先のようで、学校では無意味な下積みを過ごしている時間が多い。あんな低能達にあわせてレベルを下げるなんてぼくにとってはほとんど屈辱に近い、むしろ屈辱以上だ。その意味では優等生を演じているわけではない、ぼくは実際に優等生的気質なのだろうと思う。今年で五年連続、九期連続のクラス委員になったことだし……優等生。外面に内面が伴《ともな》っていないだけで。ともあれ、ぼくは当初は単なる点数稼ぎのために、りすかの家を訪ねることにしたのだ。二階建ての、風車のようなデザインのコーヒーショップが、りすかの家だった。紳士然とした老人がカウンターの向こうにいて(後に判明したことによれば、彼はチェンバリンという名で、どうもりすかの従僕らしい)、部屋に案内されてみて、そして扉を調けて、ぼくは——勉強机に向かって、その当時も同じように、魔道書を写していたりすかの姿を、初めて見たのだった。 (……あ)  赤い髪に——赤い瞳《ひとみ》。赤いニーソックスに、赤いワンピース。ワンピースの腰には、ホルスター状になっている細いベルトが引っかかっていて、ホルスターには細長いデザインの、カッターナイフが刺さっている。部屋の中だというのに赤い手袋を嵌《は》めていて、右手首に、唯一赤でない、銀色の無骨な手錠が嵌っていた。手錠のリングが二つとも同じ右手首に掛かっていて、奇妙なブレスレットのように見える。りすかがこっちを振り向くと、しゃらん、と、その手錠のリングがぶつかりあって、波の高い、音を立てた。 (あ、あ、あ——)  見た瞬間、今まで頭の中で考えていた、『登校拒否児を学校に通わせる手段』の全てを、ぼくは自分の意志でもって放棄した。そんなことをしてちまちまとしょぼく点数を稼ぐ理由が、一瞬にして消失したのだ。そう、そのときぼくは直感で見抜いたのである——水倉りすかが、ただの普通人なんかではなく、恐るべき魔法使いであることを。それまでずっとの間、最初は両親から始まって、幼稚園児から八十歳を越える老人まで、生まれてからこっちずっとの間、出会う人間出会う人間を『観察』し続けて、とにかく極限まで鍛《きた》えてきたぼくの観察眼が、目前のクラスメイト、登校拒否児水倉りすかが只者《ただもの》でないことを告げていた。それでどうしたかというと、ぼくはチェンバリンが部屋を去ってから、率直にりすかに向かったのだった。本当の誠意とは、どんな場合であっても相手に対して真っ直ぐに向けるものなのだ。りすかはそんなぼくに対し、こちらが面食らうほどあっさりと、その事実を認めた。認めただけでなく、自分が『城門』の向こう、『魔法の王国』長崎県で生まれ育ち、しかも『魔法の王国』の首都と並び称される魔道市、森屋敷《もりやしき》市の出身であることまで教えてくれた。 「初対面のぼくにそこまで教えていいのか?」 「いいの。別にひたすら隠すようなことでもないし——それに、いざとなればキズタカを消すのがその魔法であればいいだけの話なの」 「消す?」 「消去」 『きちきちきちきちきち……』『きちきちきちきちきち……』『きちきちきちきちきち……』と、ホルスターから抜いた、カッターナイフの薄い刃を出し入れしながら、あっけらかんとそう語るりすかに、ぼくは改めて確信したのだった。これは、——この女の子は、今まで出会った決して少なくない人間達の中で、有象無象《うぞうむぞう》から魑魅魍魎《ちみもうりょう》まで森羅万象《しんらばんしょう》、見てきた人間の中で、一番飛び抜けて——使える駒だ、と。    ★   ★  その日から今日現在に至るまで、りすかとぼくとの付き合いは絶えることなく続いている。五年生でクラスがまた別になってしまったが、元々りすかは学校に来ないので、あまり関係がない。付き合いは概《おおむ》ね学外で行われ、ぼくが空いている時間、一方的にこのコーヒーショップに来て、りすかと会話を交わす——というのが基本的な形だろうか。もっとも、りすかはこの部屋を留守にしていることが少なくない。別に学校が嫌でひきこもっているわけではなく、りすかはとある目的を持って佐賀に引っ越して来ているので、魔道書の写しでもやっているとき以外は、そちらの活動で忙《いそが》しいのだ。小学校に籍を置いたのは、それが法律で定められている手続きだからという以外に何も理由はなく、必要がないから学校には行かないというスタンスらしい。実に分かり易い。分かり易いのはぼくも嫌いじゃない。それで、ぼくはその、りすかの『目的』を手伝うという名目で無論、学校の連中には何とかして登校拒否児の心を開こうとしている自分をアピールしている——こうして、頻繁《ひんぱん》にりすかのところへ寄っているわけだ。りすかの方も別に迷惑がるという風もなく、ぼくを受け入れていた。多分、不案内な県外《ソト》の案内人、『人間』としての手足が、一人くらいあってもいいだろう、とでも考えたのだと思う。つまり、りすかにとって、ぼくは有用な駒なのだ。有用というのはぼくの勝手な思い込みなどではなく、事実、ぼくと出会う前の一年と出会った後の一年とでは、りすかの『目的』達成率は全然違う。りすかにとってぼくは『使える』人間だということ——使える協力者であるということ。もっともぼくだってボランティアで魔女のお手伝いをやるほど酔狂ではない。ぼくが欲しかったのは『魔法使い』としての水倉りすかという駒だ。お互いにお互いを駒だと思う、その構図は社会に、そして世界において当たり前なので大いに構わない。それは素晴らしく利害の一致ということ。問題は、果たして真実はどちらか、という点、それだけだ。この問題は、実のところそれほど単純でもない。初対面の際にりすかのことを『使える駒』だと思ったぼくのその認識は、しかし、半分の意味でしか正解ではなかったのだ。りすかは確かに見込んだ通りの魔法使いではあったが——それもこの年齢で乙《おつ》種魔法技能免許を取得済みという驚嘆《きょうたん》すべき経歴の持ち主ではあったが——その魔法の種類が、ぼくにとってあまりにも意味かなかった。意味がないだけならばまだしも——少しばかり、手に余る感があるのだ。『手に余る』……実際、どうしてよいのか対策が思いつかないほどに手に余る。『駒』として、今のところのぼくに扱いきれるような存在では、水倉りすかはなかったのだ。が、しかし、そんな消極的な理由で、りすかから乖離《かいり》する気にはとてもじゃないがなれなかった。ぼくが人生で初めて会った魔法使い。佐賀県と長崎県の間にある天を衝《つ》く『城門』は、法にのっとった手続きさえ踏めば基本的に出入りは自由だが、魔法使いは基本的に酷《ひど》く排他《はいた》的なので、『城門』からこちらには来たがらない。来たとしても、普通はその身分を隠す——りすかが転校してきたとき、出身地を長野県と偽《いつわ》っていたのと同じように。だから、何の能力も持たない普通人が魔法使いと会える機会なんて、ほとんど皆無なのだ。りすかを魔女だと見抜けたような僥倖《ぎょうこう》が、これから先にあるとも思えない(ぼくの観察眼もあったにせよ、客観的に言ってやはりあの出会いはラッキーの域を超えない)。『手に余る』からといってそれだけで離れるには、りすかはあまりにも『貴重』過ぎる駒だったのだ。その貴重さもそれはそれで問題なのだが——あるいは貴重さこそが真の問題であるともいえるのだが——だが、今は無理でも、ひょっとしたらいつかは自由自在に操れるようになるかもしれないし、それに——手に余る駒であっても、それならば、それはそれで使いようもあるというものだ。 「で、キズタカ。何の用を今日のテーマに?」 「りすかの力になれるかと思ってね」 「へえ」りすかはベルトのホルスターからカッターナイフを抜き出し、『きちきちきちきちき……」『きちきちきちきちき……』と、出し入れする。その行為はりすかの癖《くせ》のようなもので、あのカッターナイフは、いうなればりすかにとって魔法のステッキみたいなものだ。「聞かせて。興味あるの」 「一週間前——偶然、不可解な事実に遭遇してね。どうにも常識じゃ測りがつかなかったんで、りすかに相談しようと思ってさ。ひょっとすると……りすかの『目的』に、かするかもしんないからさ」 「へえ。ありがたいのはキズタカだね」  聞けば誰でも分かることだが、りすかの喋《しゃべ》り方には少しばかり不自然なところがある。よく聞けば発音も微妙におかしい——ぼくの名である創貴にしたって、アクセントがおかしく漢字が想像できないような、ラテン語みたいな音声に変換されてしまっている。これはりすかがぼく達の言うところの『日本語』を、あまりうまく喋れないせいだ。文系はそれほど得意分野でないぼくと較べてもまだ語彙《ごい》が少ないのは勿論のこと、どうも文脈というか、助詞という概念をりすかはうまく使いこなせていないようなのだ。去年出会ったばかりの頃はもっと酷かった。いや、勿論長崎県でだって日本語……大和《やまと》言葉は使われているのだが、長きにわたり、高き『城門』によって彼方《かなた》と此方《こなた》に隔《へだ》てられたことにより、あちらとこちらでは、同じ国でありながら文化そのものに、もう遥か異国並の差異がでてきてしまっているようなのだ(まあ、あちらが『魔法の王国』である以上、仕方のない必然的帰結とも言える)。とにかく、りすかがぼくに向かって『日本語』を話すとき、りすかが言おうとしていること、その意味自体は本質的に何も変わっちゃいないのだが、下手なドイツ語の訳みたいになってしまうのだ(固有名詞を強めてしまう傾向がある——のかもしれない)。先の言葉にしたって、本当は『キズタカはありがたいね』と言えばいいところなのに、『ありがたいのはキズタカだね』と、ぼくの他に多数のありがたくない人間がいるみたいなニュアンスになってしまっていた。更に例文をあげれば『嘘吐《うそつ》きは泥棒の始まり』と言おうとすれば、『泥棒が始まるのは嘘吐きから』となり、『どこで誰が見ているか分からない』ならば、なんだろう、『分からないのは誰か見ているのがどこなのかだ』とでもなるのだろうか。このような短いセンテンスならまだ通じるのだが、いくつもの要素が複合された長文を喋られると、よっぽど注意して聞かないとどこかで意味がねじくれてしまうことが、以前にはよくあった。今は、割とマシな方だろう。一年間ぼくと言葉を交わした成果だ——無論、りすかからすればぼく(達)の喋っている言葉こそが、意味を捉えにくい変な喋り方なのかもしれないが、郷に入っては郷に従えということで、りすかもこちらに合わせる努力をしてくれているわけだ。ちなみに、階下のチェンバリンは流暢《りゅうちょう》な『日本語』を話すことができる。見た目、西洋風だというのにだ。 「それで?わたしに持ってきたのはキズタカにとってどんな話なの?」 「一週間前の日曜日、午後六時三十二分。博多の木砂町の駅。四人の人間が一気に線路に落ちて——落ちて、五体ばらばらになったっていう話。知ってるかな」 「ん……」りすかは勉強机の、一番下の大きな引き出しを開けて、分厚いファイルを取り出した。ファイルの表紙には『六月一日〜六月十五日』と書かれている。それは、新聞のスクラップ集だった。りすかはぱらぱらと頁をめくる。その動きで、右腕の手錠がしゃらん、と鳴った。「あ、それがこれかな。うん、憶えてる憶えてる。えっと……賀川先郎、矢那春雨、真辺早紀、田井中羽実、ね。高校生、会社員、主婦、家事手伝い——残念なことに足りないのは、顔写真か」 「顔ならぼくが憶えている。ぼくはその四人の後ろに並んでいたんだよ」 「へえ?そりゃまた偶然なの」 「りすかにはこれがどういう意味か説明するまでもなく分かるよね。ぼくが目的もなく関係性のない四人を突き飛ばしたりしない人間であることは分かると思う。だったらこの『事実』は——非常に、不可解になる」 「……不可解、ね」りすかは神妙に、慎重《しんちょう》に頷いてみせる。新聞情報如《ごと》きに大したことが書いてあるとも思えないが、ファイルに、じっくりと目を落としながら。「——つまり、この件に、魔法が絡んでるって思っているのが、キズタカなわけね」 「ああ」ぼくは肯定した。「以前いただろう?人心操作の魔法使い……あと、可能性としては念動力系の魔法が考えられると思う」 「…………」  りすかが反応もせず沈黙しているので、ぼくはなんとなく釈明っぽく、「ま、ぼくには魔法の判断なんて全然分からないけどね」と付け加えた。全然分からないわけではないが、りすかの前ではこう言っておくのも後々のためには大切だ。手の内を全て晒《さら》すほどに、ぼくはりすかを信用してはいないし、依存してもいない。 「……ふうん」りすかはしばらく考えるようにしてから、ちょっと困ったように、ファイルを置いて、ぼくに向いた。「一番困るのは、不可思議で不可解なことを全部魔法の所為にされることなんだけど……キズタカ。一番恐れているのがわたし達なのは、その手の誤解なの。魔法なんてのは大抵の場合、日常生活においては大して役にも立たない、あってもなくても別に困らない異能でしかないんだから。『魔女狩り』『魔女裁判』に対応できるほど、現代の魔法使いは強くないの」 「そんなことは言われなくとも分かってるさ。だからぼくは一週間待ったんだ。一週間以内に何か合理的な説明がつくようだったら、魔法は無関係だろうと思ってね」いくら無能の集団だとは言っても、警察にもその程度の能力はあるだろう。何と言っても、数がいるのだから。だが一週間たった現在も、彼ら無能がその人数を頼りにやっていること言えば、目撃者探しだけだった。「そう——だから、りすかに相談に来たんだ。ぼくには分からないけれど、りすかなら、それが魔法かどうかは分かるんだろう?」 「うーん……」りすかは机の上の整理を始めた。大学ノートを引き出しにしまいながら考える。しゃらんしゃらん、と手錠が鳴る。「人心操作にしろ念動力にしろ、かなり高度な魔法なの——で、高度な魔法使いは、そんな、県外《ソト》でも県内《ナカ》でも、四人を無差別に殺すなんて、意味のない真似《まね》はしないと思うの——その四人の間に何らかのミッシングリンクがあるっていうんなら話は別だけど」 「それは、多分ない。ぼくが観察した限りじゃね、四人の間には何の鎖もないよ。あるとすれば、ただそこに揃っていただけ——精々《せいぜい》、それくらいだね」 「ん……それに、人心操作だと仮定した場合は、それに加えて手間のかかる魔法だから——向いていないように思えるのがこのパターンなの。ふうん——でも、気には、なるか……キズタカがそこまでいうなら」 「議論しててもしょうがないだろ」らちが明かないと思い、ぼくは言う。「論より証拠……時間があるようだったら、現場に行って調べればそれではっきりすることなんだろう?こんなところで話していても全ては想像さ」 「時間?時間なんて概念が酷く些細《ささい》な問題なのが、このわたしなの」りすかは、その造形にはいまいち似合わない、少し歪《ゆが》んだような笑みを浮かべた。「……でも、そう……現場を見に行けば、確実にはっきりする問題か——新木砂駅って、ここから何時間くらいかかる場所?」 「乗り換え含めて……二、三時間ってところかな。ほい、これ、地図。あと、電車の時刻表」ぼくはあらかじめ用意していたそれら(必要な部分をコピーしてきたものだ)を、りすかに手渡した。「細かいことは自分で計算してね」 「分かった。そこの帽子とって」 「うん」ぼくはクローゼットの前に落ちていた、大きな赤い三角帽子を拾う。その間に、りすかはカッターナイフで、自分の人さし指の先を、手袋ごと、やや深めに、傷つけていた。赤い血が、とろりと、ほんの少量だが、流れ出る。それからカッターをホルスターにしまって、ぼくの渡したその帽子をすっぽりとかぶった。帽子はりすかには随分と深く、目元まですっぽりと隠れてしまう。りすかは苦労してそれを調整した。「ありがと」 「じゃ、行ってらっしゃい、りすか」 「行って来ます」  にこっと笑ってそう言って——水倉りすかは、ぼくの目前からふっと、何の前置きもなく、完全に姿を消した。その——まさに『消えた』、移ったとか動いたとかそういうレベルではなく、今のこの、時間と空間からその存在を『省略』してしまったかのように、りすかの座っていた椅子《いす》は、がらんどうになってしまった。ぼくはクッションから身を起こし、その椅子へ座る。ぎしっと、背もたれを後ろに反《そ》らした。りすかのぬくもりが、まだ残っていた。ぼくはそこでやや、苦笑する。意図《いと》的な笑いだった。 「ドアくらい開けて出て行け……と言うためには、ぼくがドアをしっかり閉めてなかったな。うっかりしてた……ふふん」ぼくは呟《つぶや》く。「さてと。今回は——今回こそは、多少はマシな、使える魔法使いだったらばいいんだけどなあ」